赤井幸家軍は、第一次黒井城の戦いの時とは違い、波多野家からの援軍もなく黒井城の支城もほとんどが落城してしまい、兵力も激減していたと思われる。
戦いは8月9日早朝開始された。明智光秀軍は第一次黒井城の戦いの反省をいかし慎重に攻め込んだ。仮想陣地に火をかけたり、ほら貝を吹いて混乱を装い、攻めると見せかけて退いたり、勢いにのって追う黒井城兵を誘い込み挟撃したりした。そんな中、明智光秀軍の四方田政孝隊が、手薄になった千丈寺砦から攻め落とし、主曲輪に向けて総攻撃を仕掛けた。明智光秀軍の誘導作戦で主曲輪には僅かな手勢しか置いておらず赤井幸家軍も奮戦したが、最後は自ら火を放ち敗走する。
冬を待つ季節
桃と花子
透明人間
二十面相
日本一の息子
猫の足
白い秋桜
隼の生活
美月はおギャル
美姫のハムちゃん
この書状は黒井城落城15日後の8月24日もので、戦勝祈願した京都の威徳院へ送ったものになる。内容は、勝利することができたので約束どおり200石を奉納すると伝えている。また、文中には赤井忠家の居城であったと思われている高見城がまもなく落城し、一両日中には和田方面に進軍すると報じている。神仏を重んじ生真面目な明智光秀の性格を伺わせる書状となっている。書状の中段に「高見之事、執詰陣候、」という記載が見受けられる。
上記書状のように若干の反対勢力との小競り合いや和睦などを片付けて、明智光秀、細川藤孝らは同年10月24日安土城に凱旋し、織田信長に拝謁し丹波国が平定できたことを報告する。
その翌天正7年(1579年)織田信長は丹波国を明智光秀に、丹後国を細川藤孝に与えることになった。